一茶と俳句の研究室

このページは、小林一茶と長野県高山村の関係を中心とした一茶の研究室です。一茶の生涯はこちら。          

小林一茶(1763−1828)は、芭蕉、蕪村に続く俳諧師の巨匠です。出身は長野県信濃町柏原。
15歳で江戸に奉公に出て、苦労の末25歳で俳壇にデビュー、50歳で故郷に戻る。51歳で若い嫁さんをもらい3男1女を設けるが、母子ともに死去。62歳で2番目の、64歳で3番目の妻を迎えるも大火により母屋を失い、65歳でなくなった。58歳で中風を発病し半身不随で言語障害も起こしていたという。

「おらが春」「七番日記」「父の終焉日記」を始め多くの書物が残されているが、発行されたのはすべて没後のことである。生涯に詠んだ句は20000句を超える。

俳句の神様「芭蕉」の格調高い俳句に比べ、庶民の心情を素直に表現した「一茶」の句はいかにも対照的である。
「古池や蛙飛び込む水の音」芭蕉
「やせ蛙負けるな一茶これにあり」一茶

一茶の句には、蛙、蚤などの小動物を素材にしたものも多く、現代の子どもたちにもわかりやすい俳句なので俳句の入門者の教材として取り上げられることが多い。しかし、その句には庶民の本音が込められているという。

一茶の風貌

1背はあまり高くなく、横に広がって見えるほど肥っていた。
2顔はでかくてほおはふっくら、目は細く口はでかい。
3広いひたいには深いしわが刻まれ、ほおぼねが張っていて目尻は長く切れていて、鼻は小鼻が大きい。
4でかい口の唇は厚く、耳たぶは豊かに垂れている。
5手足はわりと大きく、ことに手の指が太くて節くれ立っていた。
 束末露香(つかまつろこう)『俳諧寺 一茶』から


陶器製10.5p        木彫8.5p              木彫14.5p


一茶一代全集                   絵本版こばやし いっさ 


小林一茶と高山村について

一茶は50歳で郷里に戻り、北信(長野県北部)で俳諧師としての活動を始める。記録によれば、長沼(長野市)、中野市、小布施町、湯田中(山ノ内町)、そして高山村が主な活動範囲であったという。実はその数年前に準備をしていたようで、高山村を初めて訪れたのも一茶47歳の時だという。
高山村の一茶の門人久保田春耕・成布の夫婦、久保田五郁、、久保田柳志、梨本牧人。中村皐鳥、善哉山士などの子孫は一茶の遺墨など当時の資料を今に伝えてきた。
平成8年、高山村はこれらの資料の寄託をうけて、一茶の逗留した「離れ屋」を移築復元し、「父の終焉日記」の原本など貴重な資料を公開展示する「一茶ゆかりの里・一茶館」を建設した。
一茶のふる里・一茶記念館」は、長野県信濃町にあり、
一茶ゆかりの里・一茶館」は、長野県高山村にある。

なお、他に一茶に関係した記念館、資料館は、次のようなものがある。
一茶双樹記念館 千葉県流山市にあり一茶と関係があった秋本双樹の屋敷を再現し、一茶関係資料を展示している。
小林一茶・荻原井泉水記念俳句資料館「湯薫亭」 長野県山ノ内町湯田か温泉にある。 一茶の遺墨、関連資料の他、一茶を有名にした荻原井泉水関係の資料を展示している。
真言宗優山派 炎天寺 東京都足立区にある。一茶ゆかりのお寺で句碑や像があり、毎年炎天寺一茶祭りを開催しあわせて全国小中学生俳句大会を行っている。

小林一茶と久保田春耕の関係

一茶と高山村の関係は、一茶が47歳の時、高山村を初めて訪れたときに始まります。それでは、なぜ、一茶は高山村を訪れたのでしょうか。
故郷柏原の門人であった二竹(酒造家・旅館)のいとこに可候(豪農)がいました。春耕は可候の弟で高山村の久保田家(豪農)に婿養子だったのです。

二竹・・・一茶の故郷、柏原での一茶の門人。家を弟に譲り俳人となる。
可候(滝沢善右衛門)・・・二竹のいとこ。三水村毛野(飯綱町)。
*一茶45歳の文化5年(1807)7月、父の7回忌で帰郷した時も、可候の家に逗留し門人を増やす活動をした。
春耕・・・可候の弟。高井野村紫(高山村)の久保田家の婿養子。
成布・・・春耕の妻。

一茶の長野県の門人は次のサイトが参考になります。
小林一茶の俳諧サークルの教育史的意味について

一茶の句碑

句碑とは俳句を彫った石碑のことですが、長野郷土史研究会の一茶の句碑一覧によれば平成11年10月現在、全国に296基ですが、2011年3月、調査の結果330基をリストアップできました。インターネット上で画像等を確認を進めていますが、現在のところ172基です。
330の内、長野236、愛媛24、千葉14、茨城11、東京9、群馬5、愛知5、大阪5、香川4、神奈川2、広島2、山梨2、新潟1、富山1、秋田1、三重1、滋賀1、兵庫1、奈良1、鳥取1、福岡1、長崎1。
長野236の内訳は、信濃町116、小布施町30、長野市25、下諏訪町19、山ノ内町14、高山村9、中野市5、小諸市3、飯綱町3、上田市2、千曲市2、須坂市1、飯山市1、茅野市1、塩尻市1、東御市1、軽井沢町1、辰野町1、阿智村1。
そのうち、やせ蛙まけるな一茶これ(こ)にあり12、ゆうぜんとして山をみる蛙哉4、雀の子そこのけ そこのけ御馬が通る4、我と来てあそべや親のない雀3、雪とけて村一ぱいの子ども哉3、木の陰や蝶と休むも他生の縁3であった。

一茶と久保田春耕

久保田春耕は、安永3(1774)年、飯綱町毛野の五男として生まれ、高山村紫の豪農久保田兎園の婿養子となる。春耕は兎園が天明の頃立てた「離れ屋」を一茶に提供し、一茶の活動拠点とした。この建物は、「一茶ゆかりの里・一茶館」に復元移築されている。
一茶は晩年、母屋を大火で失い焼け残った土蔵で生涯を閉じるが文政10(1827)年、春耕にあてて手紙を書き、やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ」という句をおくっている。

小林一茶の俳句のデータベースサイト


一茶の俳句データベース(一茶研究会)一茶の俳句を21000句を収録している。季題、発句の他、現代仮名遣いによるか な読みでも検索できる。(現在は試験版)

一茶発句全集
 一茶の研究を長年続けている長野郷土誌研究会のサイト。新年、春、夏、秋、冬、雑に分 類し、さらに時候、天文、地理、人事、動物、植物に分類して掲載している。残念ながら2005年で 更新を中断し、秋の植物、冬、雑が未完である。収録件数は1万4−5千句と思われる。
 なお、このサイトには一茶の句碑一覧、機関誌「長野」一茶関係記事目録などのページがある。
 
一茶の俳句を探す  アメリカ人の一茶研究者ディヴィット・G・ラヌーが構築しているサイトで
日本語とローマ字で検索できる。一茶の句、10000句以上をデータベース化している。
Haiku of Kobayashi Issa Deluxe  同じ研究者のメインのデータベースサイト。英語とローマ字で
検索できる。
 
 
俳句案内 一茶の俳句約1500が春、夏、秋、冬に分類されている。このサイトは一茶だけでなく
 主な俳人の句や季語などを検索できる。
小林一茶を読む 田中空音さんが鑑賞した一茶の句204についてのサイト。目次索引も参考になる
俳句検索 俳句全般のデータベース。ちなみに一茶で検索すると三三〇〇件がヒットした。
これには一茶の句だけでなく、本文に一茶のことばを含むものも抽出されるのでおもしろい。 
一茶の俳句集 がんばれ凡人!のサイト。約50句について解説している。

小林一茶のオンライン図書館

このページは、インターネットで公開されている一茶関連文書です。ほとんどがPDFです。
一茶研究史序説 尾澤喜雄
一茶の像
俳諧教師小林一茶の研究 渡邊弘
一茶像の問題
私の一茶
あなた任せの一茶
一茶句試論
一茶の俳句 ノブコ・ウィークス アメリカ、ハワイ 授業アイデアコンテスト作品集
詩歌におけるマンドー芭蕉・蕪村・一茶の俳句を中心にー 佐藤方哉
詩と遊ぶ 小林一茶の俳句
23年度版小学校「国語」歌人・俳人および短歌・俳句の掲載数 光村図書
俳句の鑑賞とその翻訳 楊 秋香
俳句の調べ方 山名足県立図書館
蕪村・一茶その周辺
一茶の方言連句について 川島つゆ
句碑研究 ・翻訳 
父の終焉日記 フランス語訳
俳諧の比較文学的考察 マブソン・ローラン
一茶
一茶再発見−フランス詩学の視点から マブソン・青眼
「小林一茶」・・・行く年やそらの名残を守谷まで
霧の世の光と闇ー小林一茶の死生観ー
俳句歴史街道
ふるさとへの執念「おらが春」
一茶と良寛と芭蕉 相馬御風
小林一茶の俳諧サークルの教育史的意味について
寛政句帖: 并寛政紀行旅拾遺連句稿手記 : 俳諧寺一茶遺稿
一茶の方言連句について

一茶句試論 無国籍俳人 小林一茶

俳句学習で言語感覚を磨き語彙力を高める

「小林一茶」関係書籍

NO1「おらが春・我が春集」昭和2年岩波文庫 定価20銭
「おらが春」は、一茶が刊行を意図して57歳の時に執筆したものだが、発行されたのは一茶没後25年たった嘉永5年(1852)に白井一之が刊行したもの。「我が春集」は一茶が49歳の時に執筆したもの。
校訂者は荻原井泉水である。いずれも原本を忠実に活字にしたもので、現代人にとっては詠むのは難しい。


NO2「一茶自筆稿本 おらが春」昭和62年に明治書院から300部限定で出版された。定価6万5千円。入手品は古本であるが、この手の復刻本は、購入して保存されているだけなので20年たってもきれい。


NO3 「一茶自筆 父の終焉日記・淺黄空・俳諧寺抄録」昭和54年勉誠社。定価5000円。
前田利治編。久保田春耕の家に伝えられてきた原本を昭和初期に表具されたものを原寸大に製本したものである。正直のところ私にはほとんどよめない。

      

NO4 「芭蕉・蕪村・一茶・真蹟集」昭和53年平凡社。定価58800 
一茶の真蹟、真筆の一覧が掲載されている。別冊も読み応えがある。




少なくとも次の本は入手したいと思う。
一茶の研究 
○作家研究
小林計一郎「俳人一茶(昭和36信濃教育会出版部)「小林一茶」(昭和36吉川弘文館)「俳人一茶」(昭和39角川写真文庫)
丸山一彦「小林一茶」(昭和39桜楓社)他
大場俊介「一茶の愛と死」(昭和39芦書房」他
○作品鑑賞
中島武雄評釈「古典日本文学全種小林一茶集」(昭和35筑摩書房)父の終焉日記・おらが春
丸山一彦訳注「父の終焉日記・寛政三年紀行」(昭和37角川文庫)

小林一茶は何歳で亡くなったか

小林一茶は、多くの文献で65歳で亡くなったとある。しかし、一茶は宝暦13年5月5日に生まれ、文政10年11月19日に亡くなった。宝暦13年5月5日は、1763年6月15日、文政10年11月19日は1828年1月5日である。従って、64歳で亡くなったというのが正解ではないのか。

65歳と64歳の違いは、歴史上の人物は、その当時の暦と年齢の数え方で表記するからである。日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで天保壬寅元歴と呼ばれる太陰太陽暦が使われていた。また、昭和半ばまで生まれた年を1歳とし元旦がくるたびに1歳を加える数え年が使われていた。

ところで、一茶が江戸に奉公に出たのは、安永6年(1777)春、15歳とされるが、これも数え年である。春の日が特定できないので、満年齢でいえば誕生日がすぎていれば14歳、誕生日になっていなければ13歳の時のことである。

ところで次の文章は、やっかいである。
1827年 文政10年 6月1日柏原大火で母屋類焼、焼け残りの土蔵に移る。11月19日、仮住まいの土蔵の中で65歳で死去。
文政10年11月19日は、西暦1828年1月5日であるので一茶が亡くなったのは1828年であるが、この文章から1828年を読み取ることは難しい。

従って次のように分けて書くことがより親切かも知れない。
1827年文政10年 6月1日柏原大火で母屋類焼、焼け残りの土蔵に移る。
1828年文政10年11月19日、仮住まいの土蔵の中で65歳で死去。




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小林一茶資料館へのリンク

一茶のふる里・一茶記念館、長野県信濃町
一茶ゆかりの里・一茶館  長野県高山村
一茶双樹記念館
      千葉県流山市。
小林一茶・荻原井泉水記念俳句資料館 長野県山ノ内町
袋屋美術館        長野県中野市



2013/2/13
生誕250年研修会資料(pdf)
表紙
資料1一茶について
資料2年譜
資料3代表句
資料4教科書
資料5偽作
資料6句碑
資料7門人 

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